ジンライムの一路

私の聖書勉強、ほか徒然

主の道を教えてください

今回は詩篇25篇です。

深刻な憂いと悩みの中で心注ぎだして祈る信仰者が、ついに勝利を得て、民全体の臆いと救いを祈る過程が全篇に表されています。1~7節は憂いの中で主の道を求める祈り、8~15節は恵みとまことの主の道を確認する祈り、16~22節は個人の悩みからの救いと民の悩みからの救いを求める祈りです。


わが神。私は、あなたに信頼いたします。どうか私が恥を見ないようにしてください。私の敵が私に勝ち誇らないようにしてください。(2節)

神よあなたに信頼します、と言いながら、すぐにそのあとで「恥を見ないように、敵が勝ち誇らないように」では一見矛盾しているように思われます。なぜなら、本当に信頼しているならば「……してください」とは言わなくなると思います。しかし私たちは、神様、神様と言い、神は全能である、神はそのひとり子を賜った方であると覚えているのに、自分の生活を神にゆだねていくことができないものです。信頼することはやさしいことのように思っている人がいますが、それはその人が信頼したことがないからで、本当に神に信頼していこうとするとき、それがどんなに難しいことかを知らされるのであります。


主よ。あなたの道を私に知らせ、あなたの小道を私に教えてください。(4節)

本篇には「道」と「教えてください」という言葉が繰り返されています。「主よ あなたの道をわたしに知らせ、あなたの進む道を私に教えてください」(4節)、「主は,人に道をお教えになります。……貧しい者にご自分の道をお教えになります。主の道はみな恵みとまことです」(8~10節)、「主はその人に選ぶべき道をお教えになる」(12節)。主の道を歩むところに信仰者の王道があります。

詩篇の作者はモーセと同じように(出エジプト33:13)、どのように神が働かれるのかを知り、神のご計画と目的を理解したいと強く望みました。キリスト者も神の行動(救い、奇蹟 )についてある程度知ることはできますが、本当の意味で個人的に神を知り、その道(神が私たちの内に働き導かれる知恵の原則)を理解することはできません。けれどもここで詩篇の作者は神の道を知って成功するための原則を次のように示しています。

① みことばの真理の基準に従って正しいと示される道へ導いていただきたいという願いを心から持たなければならない。
②「一日中」神に信頼と望みを置くようにしなければならない(5節)。
③ 貧しい人々と同じようにヘりくだって神に服従し(9節)、神を敬う生活に全力を尽し(10節)、主を恐れ(心からあがめ、敬い、すばらしい力と権威を認めること)なければならない(12-14節)。
④ 神と神の道を知るには罪が障害になるから、生活の中から神に逆らい神の基準を拒むものを取除いてこ神に赦しでいただきさ霊的にきよめていただかなければならない(4~8節)「もしも私の心にいだく不義があるなら、 主は聞き入れてくださらない」
⑤ 生活の中に困難が起こるのは必ずしも神が非難しておられるということではない。神を知って神の目的を追い求めることにまして苦しみと損失を受けることもある(使徒14:22, 20:22-23)。その最も良い例は主イエスである。主イエスは神のご計画に完全に従われたけれども悲しみを受け、裏切りと十字架の死を味わわれた。神のご計画と目的の中で生きる人は、問題や反対、拒絶や迫害に遭うことを覚悟しておかなければならない(マタイ10:24)

「恵みとまことはイエス·キリストによって実現したからである」(ヨハネ1:17)とあるように、主イエスご自身は恵みとまことそのもののお方でした。先の引用にもあるように、主の道は常に主の慈しみとあわれみが満ちているのです。そして恵みはまことに先行し、まことは恵みを支えているのです。


主よ。御名のために、私の咎をお赦しください。大きな咎を。(11節)

主はご自身の道を誰に教えられるのでしょうか。本篇でもう一つ繰り返される言葉に「罪」「咎」の赦しを求める言葉があります。「私の若いころの罪や背きを、覚えていないでください」(7節)、「主よ あなたの御名のゆえに、私の咎をお赦しください」(11節)、「私の悩みと労苦を見て、私のすべての罪を赦してください」(18節)。このようにダビデは自分の罪を認め、主に祈っているのです。「主は……罪人に道をお教えになります。……貧しい者にご自分の道をお教えになります」(8~9節)とあるように、主は心砕かれて自分の罪を認め、悩み苦しみも罪と結びついているものであることを認め(17~18節)、主の道を求める者に、ご自身の道を教えてくださるのです。

 

「咎」と訳ざれていることば(《ヘ》アボーン)は「倒錯」または「曲がった振舞」という意味で、「ねじる」、「ゆがめる」という語源から来ています。今まで良かったものをねじ曲げることを指し、間違った動機や自己中心的な目的を意味していました。また意図的に行われた罪の意識と、それに伴う罰にも使われます。