ジンライムの一路

私の聖書勉強、ほか徒然

一つのことを願う祈り

私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で思いにふける、そのために。(4節)

今回は詩篇27篇です。4節がたいへん美しく感じられます。


サウロかアブサロムか、あるいは他の外敵か、敵の軍勢が陣営を張って攻めてくる中で、ダビデには何という平安と勝利があるのでしょうか。主は私の光、救い、いのちの砦と告白し、微塵の恐れも感じない心の平穏さは、いったいどこから来るのでしょうか。「たとえウォルムスの瓦の数ほど悪魔がいても私は行く」、「私はここに立っている。神よ、助け給え」とは五百年前のマルティン·ルターの恐れなき告白です。激動の宗教改革の戦いの最中で、どうして静かな不動の確信に満ちた『キリスト者の自由』が生まれたのでしょうか。「キリスト者はすべての者の上に立つ自由な君主であって何人にも従属しない。キリスト者はすべての者に仕える僕であって何人にも従属する。」自由な君主、愛の奴隷。驚くべき提言です。「わが命も宝も妻も子らも取らば取りね神の国はなお我にあり。」まさに敵前の凱歌です。

本篇は1~3節の敵前の確信から、4~6節のただ一つの願い、そして7~14節の御顔への渇望へと進みます。荒れ狂う嵐の中でダビデは「一つのことを私は主に願った。私はそれを求めている」と明言します。その唯一無二の一つのこととは、「私のいのちの日の限り主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で思いを巡らすために」でした。臨在の主を独り占めし、御顔を拝し、つらつらその麗しさに心奪われ、神の教えを瞑想する。まさに健全な神秘主義と神学の極みです。ベタニアのマリアも主の御足下でこのただ一つのことを求めました。

 


 

あなたに代わって、私の心は申します。「わたしの顔を、慕い求めよ。」と。(8節)

今日は不安の時代とよく言われます。さまざまな公害、頻繁に身近に起こる交通事故、お互いに信じ合えない人間関係など。コロナ禍にあってはますますだと思います。しかしそうした社会の中にある私たちの不安の根底は目に見える一つひとつの現実ではなく、寄り頼むものがない、言うならば神を失ったというところにあるのです。もちろん神に寄り頼んでいったからといって、そうした問題が自分に都合よく解決していくというものではありませんが、神は光であり救いであり、砦であり、いっさいは神の愛の中に、御旨の中にあるのだと示されるとき、私たちは何をも恐れない平安を与えられるのです。

「わたしの顔を、慕い求めよ」とありますが、これは今大きな試練の中におかれているダビデの祈り求めに対する神のたとえだったのです。私たちにおいてもそうです。物質的なこと、人間的なこと、この世的なことについて問題を感じ、その解決を神に迫っていくとき、神は「ああそうか」とその願いをかなえてくださる方ではありません。神はその所で「わが顔をたずね求めよ」と言われるのです。今一番大事なことは欠乏を補うこと、問題を解決することではありません。今なすべきことは神と私の関係を正していくことなのです。神と私の関係が違ってくると、いっさいのものがちぐはぐになってきます。たとえば最初に一つかけ間違ったボタン、それを直さないととにはどうしようもないように、神と私との関係を正すことなしには、本当の問題の解決は得られないのです。

 


 

待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を。(14節)

信じなければならないときでも、生まれながらの心ではどうしても理屈をこねる傾向があります。静まらねければならないときに、働いてしまいがちです。そして神の道を着実に歩み続けなければならないときに、我が道を行きたがってしまいます。人間の本性にとってどれほど辛くても、神の道を行かなければならないのに。

神をさしおいて自分勝手な道を行くことで、はたしてうまくいくのでしょうか。多くの場合、私たちは心にやましさを覚えます。しかしそうでない場合、間違いなく信仰は弱まって、強くなることはありません。自分自身で救いを得ようと労するたびに、神に信頼してゆだねることはますます難しくなっていきます。そしてついには、自分の堕落した生来の理性に完全に道をゆずり、不信仰に支配されてしまいます。

もし神ご自身の時を待って、ただ神おひとりに目を向けて助けと救いを求めるなら、その違いはどれほどでしょうか。ついに助けが来るとき、それは長い時期を祈り続けたあとかもしれませんし、信仰と忍耐力を大いに働かせたあとかもしれません。それは、なんと快く甘美なことでしょうか。そして神を信頼し、その救いを忍耐強く待つことに対して、たましいはどんな現在の報酬を受け取ることでしょう。

私たちは忍耐強くあらねばなりません。神がすべてを行うお方だからです。忍耐強くないときは、まさに神と、神のなさるわざにあら探しをしてしまうのです。神は偉大なる与え手であられます。もし神が今日は与えずに御手を隠しても、明日はその二倍ものものを与えてくださるではありませんか。