ジンライムの一路

私の聖書勉強、ほか徒然

主のすばらしさを味わえ

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 今回は詩篇34篇です。
ダビデによる。彼がアビメレクの前で気違いを装い、彼に追われて去ったとき。


主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。
幸いなことよ。彼に身を避ける者は。(8節)

 これは苦しんでいる者への慰めの語りかけの詩です。それも、単に苦しむ者に対するものではなくて、神の前に正しく歩もうとするがゆえに苦しむ者への慰めなのです。本篇は25篇と同様、アルファベット形式の詩篇です。1~7節では救われた者の賛美と証し、8~10篇では主の恵みの体験の勧め、11~12節では義しき者の祝福と悪しき者の滅亡が歌われています。

まず、主の救いは実に現実です。すべての恐怖、苦しみからのた助け(4、19節)、すべての苦難からの救出(6、17)、心の砕かれた者の救い(18節)、主のしもべらのたましいの贖い(22節)が明確に歌われています。主イエスは「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)と御手を広げて招いておられます。主イエスこそ、すべての人のすべての悩みからの現実な救い主なのです。


正しい者の悩みは多い。
しかし、主はそのすべてから彼を救い出される。(19節)

 「正しい者の悩みは多い」とありますが、神の前に正しく生きていこうとすると、いろんな悩みが起こって来ます。そしてある意味では、いろんな苦しみを受けるのは、本当に神を信じて生きているしるしです。そのような知恵の言葉をこの詩は歌っているのです。

逆に、私たちは信仰生活をしていると、諸事万端うまく行くという考えをいだくことがよくあります。人間は自分たちの知恵、経験でもって、信仰したらこうなるんだ、ああなるんだという方程式のようなものを持ってきて、それでいっさいを割り切っていこう、解決しようとしてしまいがちです。けれども神の世界とは、そういう人間の知恵で理解できる公式あるいは原理にあてはまるものではありません。五つのパンで五千人が養われた世界、水がぶどう酒に変えられた世界なのです。

主イエスの語られたことにしても「戸を閉じてかくれたところにいます天の父に祈れ」と一人の祈りをすすめられ、また一方では「地上にあってあなたがた二人三人が心を合わせて願い求めるなら天の父はそれをかなえてくださるであろう」と、共に祈ることをすすめていられます。そういう点で聖書には統一が見いだしにくい。しかし統一はあります。それは、聖書の人々は、神のなさることはすべて良しとして、どんなことをせられてもそこに神をあがめていったということで、それがイスラエルの人々、聖書の人々の生き方であったことです。たといそれがどんなに納得のいかないこと、文句を言いたくなること、つらいことであっても、神のなさることに対してどこまでもアーメンと従っていくこと、そこに信仰の世界があります。自分に都合のいいときだけアーメンと言い、都合の悪いときには神を否定していく生き方ではないと、この詩も語っています。

けれども神のみ言葉に従って、それをほんとうに信じて生きていこうとするとき、いろんな心配、不安が生じてきます。なぜなら神の言葉は人間の可能性ではなく神の可能性の上に立って言われているからです。しかし神は全能であり無から有を生じるかたであります。乙女マリアからの主イエスの誕生はこのことをはっきりと証ししています。


主の救いは常に完全です。決して中途半端ではありません。すべての苦難、すべての恐怖から救い出され、彼の骨をことごとく守られるとあるように、すべての悩み、恐れ、苦しみ、痛みから完全に一つひとつ、ことごとく解決してくださるというのです。また、「主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される」(7節)とあるように、主ご自身とともに天使たちが主を信じる者の周りをぐるりと取り巻いて、あらゆる災いから守ってくださるというのです。

さらに主の救いは、主に救いを求める者に即座に答えられます。「私が主を求めると主は答え」(4節)、「この苦しむ者が呼ぶと、主は聞かれ」(6節)るのです。主はなんと恵み深いお方でありましょうか。主の恵みはなんとすばらしいでしょうか。主の恵みを味わいましょう。