ジンライムの一路

私の聖書勉強、ほか徒然

主のみこころの中にいる喜び

今回は詩篇40篇です。指揮者のために。ダビデの賛歌。

ここに全き救いの喜び、神のみこころを楽しむ歌があります。主イエス・キリストが私たちに与えてくださる救いとは何か、その全貌を知ることができます。1~10節には全き救いのプロセスが段階的に記され、11~17節では現在の苦境からの救いを求める祈りが続きます。救い、献身、弱さに徹する祈りの生活が全体の流れです。


1 私は切なる思いで主を待ち望んだ。主は、私のほうに身を傾け、私の叫びをお聞きになり、2 私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。3 主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。多くの者は見、そして恐れ、主に信頼しよう。


泥沼は恐ろしい。いったんそこに足を踏み込むと、もがけばもがくほど引き込まれていき、自分ではどうすることもできず、だれかに引き上げてもらう以外に助かる道はありません。ダビデはそのような絶望の中にあって、耐え忍んで神を待ち望みました。自分でなんとかしようとするのではなく、ひたすら神を信頼し、その助けを待ち望んだのです。だから神によって減びの穴から、泥の沼から引き上げられるという経験をしました。そして彼は新しい歌をもって、神はこんなにまでわたしを愛してくださっていたのか、こんなにまで身近にいらしてくださったのか、こんなにまで小さい者を心にかけていてくださったのかと、神をほめたたえずにはいられなくなったのです。また主に信頼することがどんなにすばらしいことかというとを、人々はこの私の生活を通して知るであろうと3節までに記しています。


救いは心の底からの切なる叫び、求めから始まります。主は必ずその叫びを聞かれます。罪の泥沼から引き上げられ、救いの岩に足を置き、新生の歩みへと導かれ、新しい歌をほめ歌う。これは主イエスだけが十字架の贖いにより成し得る救いです。新創造され、賛美する回心者を見て、人々は驚き怪しむでしょう。語り述べようとしても数えきれない恵みに戸惑うほどです。


私たちはこの人生でいつどんな目にあうかわかりません。しかしこの無情な世の中で一つだけ変わらないことがあります。それは17節にある、私たちが「主がわたしを顧みてください」と呼ばわることができ、それに応えてくださる主がいらっしゃることです。これはどんなに貧しいときにも、どんなに乏しいときにも変わることのない真理なのです。 もし私たちが、神の変わることなき御愛をしっかりと掴むならば、しっかりとその所に立つならば、もはや貧しくなること、乏しくなることがそれほど大きな問題ではなくなります。言いかえれば、私たちにとってそういうことが一番大きな問題であるという場合、それは「主が顧みていてくださる」ということが、はっきりしていないからなのです。

 


 

わが神。私はみこころを行うことを喜びとします。あなたの教えは心のうちにあります。(8節)

神に従い心の中に神の律法を持つ人々は単なる義務としてではなく、愛と献身から神に従いたいという願いを持ちます。その信仰は積極的になり、神のご計画に従うことを心から喜びます。その喜びは神のことばを覚え、また聖霊の助けをいただきながら神の真理を生活に当てはめようと絶えず努力することの中に具体的に現されます。


神のみこころをすべて受け入れる、あるいは神のみこころと一つになることは考えもつかない、というクリスチャンは少なくありません。彼らは、神のみこころをすべて行う、または受け入れるようになるには、今より千倍も「恵みによって強くなり」聖くならなければならないと思い込んでいます。困難は神のみこころを誤解していることから来ている、と言うことがわからないのです。クリスチャンは新たにされた意思を持っていることを、彼らは忘れているのです。この新たな意思が神のみこころを喜ぶのは、それが神のみこころから生まれたからです。この新たな意思は、神のみこころの麗しさと栄光を見て、神のみこころに従います。


自分自身の意思ではなく、神のみこころを行うようにしましょう。人生の海に、自分自身の選んだ港を目指して乗り出してはなりません。自作の海図に導かれるままに、おのれの利己的な喜びや野心の力に駆り立てられて航海しないことです。神のもとに来て、信じて疑わない撤回不能の、すべてを明け渡す一度きりの行為によって、私たちの人生を神にゆだねるべきです。そうすれば私たちは、自分の人生に対する神のみこころを確実に知り、見るようになるでしょう。私たちは自分の人生について、おのれの意思ではなく神のみこころを選びはじめたとたん、露ほどの疑いもなく、神のみこころを知ることになるのです。