ジンライムの一路

私の聖書勉強、ほか徒然

あわれみ深い人たちの幸い 詩篇41篇

今回は詩篇41篇です。詩篇第一巻の最後です。

第一巻の最後の詩篇も、詩篇1篇と同様「幸いなことよ」で始まります。

幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は。主はわざわいの日にその人を助け出される。(1節)

「弱っている者に心を配る人」は、「貧しい者をかえりみる人」(口語訳)、「弱いものに思いやりのある人」(新共同訳)とも訳されています。1〜3節は同情ある者への祝福、4〜9節は弱っている者の周囲の敵対者、10〜13節は癒やしの求めと頒栄へと進みます。


弱い人といってもいろいろおります。からだが弱い人、心が弱い人、あるいは道徳的に弱い人など。そういう人たちをかえりみるということは、そういう人たちの弱さを自分がすこしでも負おうとすることであり、神はそういう人を祝福されるというのです。私たちは弱さに対して同情はしますが、その弱さに対して、その弱さを担っていくことはなかなかできません。キリスト教の「愛」はこれを担うまでに至るはずです。


特にそれが道徳的な面での弱さであったりすると、たとえば私を裏切るような人がいた場合、その裏切りを背負っていく、言うならば裏切られていくということができるでしょうか。しかし世渡りの上手な人であれば、できるだけ避けていこうとする、そういう問題に関心を持ち、自分の身を痛めてまでかかわっていく……そういう生き方をする人を、神は祝福されるのだと、ここでは歌っています。


第一段ではダビデは神の恵みに囲まれ、第二段では悪しき冷たい友に囲まれています。その中で主を仰ぎ、罪を言い表して祈るのです。「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです」(マタイ5:7)と主イエスは山上の説教で語られましたが、第一段ではまさにあわれみ深い者への祝福が記されています。わざわいから助け出される。神に守られる。地上で幸せな者とされる。敵の意のままにされない。病の床で支えられる、病はことごとく癒やされる。何という豊かな、現実的な主からの祝福でしょうか。


第二段では第一段に反して、神の恵みに囲まれていたダビデが悪しき者に囲まれるのです。その悪しき者たちとは、「私の敵」「見舞いに来ても悪意を蓄える者」「私を憎む者」「私が信頼した親しい友」であって、ダビデを取り囲む人たちです。「私のパンを食べている者までが、私にそむいて、かかとを上げた。」(9節)は、主イエスがユダの裏切りに言及して用いた聖句です。ダビデにおいてはアブサロムの反逆にくみした議官アヒトフェルかもしれません(2サムエル15:12)。同情深く見せつつ、陰では憎み、偽り、そして裏切る輩は、昔も今も変わりありません。


10節に「主よ、わたしを助け起こしてください。そうすればわたしは彼らに報い返すことができます」と歌っています。これは主に従おうとしながらも、なお報い返そうとする自分を捨てきっていないダビデの自己中心の姿を示しています。この自己中心が影のようにどとまでもつきまとうのが私たちのどうしようもない現実であり、原罪とはそのことなのであります。そしてこの罪からの救いはイエス。キリストの十字架の贖いによる以外にはどうすることもできません。私たちは旧約聖書を学ぶことによって十字架の恵みをますます深く思わせられます。


ルターの言葉に「神は無から世界を創造された。だから私たちは無にならなければ、神の創造の業を見ることはできない」というのがあります。自分が何か持っているとか、何かしているとか、自分が先立っている間は、神は沈黙を守られます。自分からまったくそういうものがなくなり、神によって引きまわされる、そういう徹底した生活はなかなかできません。しかし神だけしかない、そのほかに何もないという人においてはじめて、神は神の業をなされるのです。それは自分が何もしない、怠けているということではなくて、自分が神に従うということなのです。自分のある間は従うことはできません。だから私たちがみことばに従うとき、神が創造の業をなさるのであります。クリスチャンとはこういう人生を生きる者であります。


第三段では、そうした中でダビデは「しかし 主よ」と神を仰ぎ、あわれみを求め、「立ち上がらせてください」と癒やしを祈るのです。

第一巻の最後は頒栄です。「ほむべきかな イスラエルの神、主。とこしえからとこしえまで。アーメン。アーメン。」


【祈り】主よ、主イエスにならい、私を弱っている人々を真に思いやる者にしてください。