ジンライムの一路

私の聖書勉強、ほか徒然

御顔の救い 詩篇42篇

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わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。
詩篇42:5

ここから詩篇第2巻に入ります。本篇は壮絶な魂の渇きに始まり、臨在の主への賛美で終わっています。詩人がヘルモン山に近いイスラエルの北方を放浪していた時、かつてエルサレムの都において公同の礼拝を守っていた頃の感謝と喜びを思い起こし、谷川の水を慕いあえぐ鹿のように、切に神を渇き慕い求めた時の詩篇です。元来は次の43篇と一つになっていたのが、分かれたのだそうです。そしてこれはバビロンに征服されたイスラエルの人たちが、バビロンでの長期の捕虜生活を余儀なくさせられたときの歌であろうと言われています。

 

本篇を二分すると、1~4節は、かつての神との交わりを慕う、5~11節は、現在、試練の中で臨在の主を仰ぐ、となるでしょう。神を渇き求める魂ほど幸いな魂はありません。42 篇と43篇には七様の神の御名が記されています。神 (1節)、生ける神 (2節)、わが港(5節、口語訳)、私のいのちなる神(8節)わが巌なる神 (9節)、私の力の神 (43:2)、私の最も喜びとする神(43:4) の七様です。

 

2節に「生ける神を慕う」とありますが、神をわたしたちはどこまでも愛し求めていくのだということです。ともすると私たちは神の恵みばかり求めやすいのですが、神の愛は私が神を愛していくことにおいてはじめて知ることができます。神を求めることもそうです。私が神を求めていくことにおいて、すでに私のような者を求めていてくださる神を知ることができるのです。放蕩息子の場合がそうでありました。彼が本当に父を求めてそのもとに帰っていったとき、父がどんなに自分を愛していてくれたかを知ることができたのでありました。

 


 

詩人はどのように神を渇くのでしょうか。慕いあえぐ(1節)、たましいを注ぎ出す(4節)、うなだれ、思い乱れる(5節)ように神を慕いあえぐのです。いつ渇くのでしょうか。昼も夜も間断なく渇くのです(3、8節)。なぜそれほどまでに渇くのでしょうか。身はエルサレムの神の家から遠く離れ(3、4、6節)、大波が越えるような試練の中にあり (7節)、敵の虐げの中にある(3、9、10節)からです。

 

この詩をうたった当時のイスラエルの人々にとって一番大きな悩み、それは3節の「おまえの神はどこにいるのか」というののしりでした。十字架上のイエスもやはり同じののしりを受けられました。おまえの言うように神がおられ、愛してくださるのなら、なぜおまえはそのような苦しい目にあうのだと人々は言います。現実に非常な苦しみの中にあったイスエラルの人々は、うなだれた。思い乱れた。しかし彼らはその中にあってなお神を待ち望んだのです。そして5節に「神を待ち望め。わたしはなおわが助け、わが神なる主をほめたたえるであろう」とうたっているのです。

 

弟子の一人ユダはなぜイエスを裏切ったのでしょうか。彼は結局待ちきれなかったのではないでしょうか。ユダが主イエスに期待したこと、それはローマの支配からイスラエルの人々を救い出すことであった。しかし主イエスは一向にそのために立ち上がろうとはされず、病人をなおしたり、貧しいらい病人の家に行ったりされるばかりでありました。そうした日々が三年間つづいた。ユダはとうとう待てなくなってあの暴挙に出たのではないでしょうか。しかし信仰生活とは待つことだと思います。なぜならば神を信じなければ、現状はどうであろうとも、神はこの世界を支配しておられるということを信じなければ、じっと神を待つことはできないからです。

 

聖書の一番最後のページ、ヨハネ黙示録の終わりは 「主よ、きたりたまえ」という、待つ姿勢で閉じられています。この詩人が、どんなに苦しくても、ののしられても、なお神を待ち望んだように、私たちがもだして待つならば、一見無秩序で人間の力だけが支配しているかのごとくに思われるこの現実の中に統一のあることを知り、偶然の集積としか思われないような歴史の中に神の導きを、御手の業を見ることができます。私たちの信仰生活はそこにあるのだと思います。